1990年6月同僚とともにフランクフルト経由ハンブルグへ。初めての海外出張であった。
市内にそびえたつ圧巻のRathaus(市庁舎)に迎えられ、楽しさ爆発の海外出張であったこと鮮明に覚えている。Rathausは「ルルウラアアトハウス」とRの部分は舌を強烈に巻いで発音しないといけない。(巻かなくとも叱られることはない)
ハンブルグ郊外のNIVEAの工場の向かいに立つ、Philips社(書類にValvo社の名前が残っていた=電子管の製造会社)へ。当時Philipsだった友人によれば、地名はGeorg-Heyken-Straßeで写真の建物である。
Philips須藤伸次氏とバス停
当時使っていた半導体回路シミュレーション用のコンピュータはVAX11であったが、これをドイツ人は「ファックスイレブン」と発音して、最初、会話の脈絡的になぜファックスが出てくるのか大いに混乱したものである。ドイツ人の発音はVはFに近く、SはZの発音である。また、Dataデータはダーターと発音する。英語による会議であるが、お互い英語は母国語ではないので、白板上で堅実に議論ができた。
同僚とPhilipsのプロジェクトメンバー、ラップアップ会議後
2021年放映中の大河ドラマ「青天を衝け」でもパリでの渋沢栄一の驚愕ぶりが描かれているが、日本を飛び出し海外を見聞することは、たとえるならば、地平の果ては滝のように海水が流れ落ちているわけではないという発見の如く、まさに、その人の人生観を劇的に変えてしまうものだと思う。
そのころからか、残業しまくりの日本の会社風土と16時には家に帰ってしまうドイツの会社、成果的に大差ないことに気が付き始めた。ただしPhilipsの人の話では、家族と食事することが必須のため夕方には帰るが、家でぼーーっとTVをみるだけではない=ある程度は仕事のことは考えている(=回路設計は家でもできる)、とのこと。しかしながら、法律による1週間の就労時間規制や職場での専有面積規制などがあったと記憶しており、このことが、分業の在り方を進化させ仕事の効率を上げたのではないかと当時は思っていた。
このプロジェクトは欧州ローカルコンテント政策がきっかけと聞いていた。このことと、1986年の日米半導体協定、1990年すぎに始まっていた半導体ビジネスの大発想転換・・・半田ごてを握りしめることしか能がなかった私が、すべて関連性がある話だと気が付いたのは、後年になってからである。国際競争と貿易不均衡、域内産業保護、はたまた政治も加担した競争戦略。現在も半導体製品不足などもあり、日本国内の半導体産業復古が議論されているようだが、過去の総括も重要ながら、日本人のマインドをどう鍛えていけるかがポイントになるだろう。狩猟文化と農村文化、国境を持つ国と島国、いろいろな要因がありそうだ。製造拠点を日本におけばいいのだろう、だけではまた敗走の憂き目をみかねない。
大発想転換とは、忘れもしない1991年のドイツ出張で、ハノーバー空港で目に飛び込んできた「Intel inside」(インテル入ってる)の広告である。空港を降り立ちロビーに埋め尽くされた「Intel inside」のステッカー群。いったい何ごと?が正直な感想だった。黒子であった半導体事業が表舞台へ。それは半導体専業企業による新たなビジネスモデルの始まりだったのである。垂直統合型のほとんどの日本の半導体事業者はこのことに気が付いていなかったのではないか。少なくとも有識者含めIntelの意図を読み解けたのは少数派だったと思う。
つづく