半導体奮闘記

駆け出し編

垂直統合企業の半導体事業部門にて

松下電器の半導体部門である松下電子工業は1952年松下幸之助の技術戦略眼により設立された。

1952年12月オランダのフィリップスとの合弁で松下電子工業が発足、当初は真空管と電球、蛍光灯が中心

1957年5月半導体事業に参入

1993年5月フィリップスとの合弁を解消し100%松下電器傘下に

2015年富士通の子会社富士通セミコンダクターとパナソニックのシステムLSI事業の統合によりソシオネクスト発足

2019年パナソニックセミコンダクターソリューションズ(システムLSI事業以外)、台湾ヌヴォトンへ売却

上記流れでパナソニック半導体事業部門としては終焉したが、途中世界のTop10に入るなど奮闘はしてきた。のみならず、担当してきたアナログ信号処理LSIでも有数のシェアを誇り、NANDなどメモリー技術、オプティックス、高周波などデバイス技術でも世界の最先端を走っていた。システムLSIでもUniPhierというプラットフォームを開発するなどして技術戦略で長じていこうとはしてきた。

フィリップスとの合弁であり、定期会議もあり松下電器から独立して独自の戦略を展開できた部門もあったようだが、アナログ、ロジックなどシステム系に関しては松下電器のための半導体部門という色彩が強かった。デバイスに特長があり汎用性追求を可能にした部門か、カスタム開発で顧客システムに特長を出す部門かで色彩は決まっていたように思う。

1980年2月半導体事業本部半導体R&DセンターIC開発部に配属された。ICとはIntegrated Circuitの略であるが、このICの開発とはアナログICの開発を意味する。ほかにはマイコン開発部やロジック開発部、ディスクリート開発部などがあった。

当時は、様々な電子機器用の半導体開発が活発で、私はVTR用IC開発に携わった。据置用VTRに加え8mmムービー用への展開など開発ロードマップは百花繚乱といってもいいだろう。業務も忙しかったが、これが会社組織というものかと、まるで初めて都会に出たかのような昂揚感にまみれた日々だった。

VTRには磁気テープを巻き付けるシリンダがあり高速に回転しており、オーディオのカセットテープとはシステムの大きさも要求仕様も高度であった。複数の半導体をセットにしてセット事業部と共同で開発していった。この中の半導体の開発を半導体R&Dセンター内の複数の部署、マイコン開発、ロジック開発共同でプロジェクトを組んで開発を前に進めていったのである。仕様はセット事業部の方で決めていくので、半導体側で横連携する必要はあまりなかったが、ひとつの大きな連帯の中で前進している感覚はあった。その最大のドライバーは本社研究部門でありセット事業部であった。当時の本社研が中心となって要素技術のみならず分野の違う半導体をひとつのプラットフォームとして束ねたからこそできたのである。

VTR用半導体開発の世代も第3世代から第4世代への進んでいったが、ここで身近に見た問題点のひとつは、半導体システムの進化要求に半導体プロセス開発の追従が振り回されたことだ。もちろん、半導体プロセス技術者は優秀な人々で構成されていた。しかしながら、この時代、機器のシェア争いも厳しく機器システム要求を半導体設計者が受け取り、その仕様を実現しようとしたときにプロセスのばらつきを吸収できるかどうかまで十分検討できない(時間がない、もしくは部門間「すり合わせ」に慣れていない、ことによる)状況が生まれる。結果、量産開始後に半導体の歩留まりを向上させるべく設計者が工場に張り付かざるを得ない状態になっていった。しかも、設計変更に次ぐ設計変更で現場は疲弊していった。

もうひとつの問題点は、据置用VTR2種類とムービー用でシステム要求仕様に応える必要があり、2種類のプロセスで何種類かの設計コアが生まれたことだ。このことは後々、開発競争観点ではボディーブローとして効いていく。日程要求など言い訳はあったものの、我々の半導体設計戦略としてモジュラー化を進めて資産活用しやすくする必要があった。プロセスが進化すれば、モジュラーごとに決めた仕様によって回路を更新する必要はあるが大まかなトポロジー(回路構成)はそのままで行けたはずだ。どちらかといえば、人材育成を鑑み、LSIを最初から組み上げるOJTに力点をおいていたような気がする。のちにシミュレータをMentorからCadenceに変更し、MatLabも導入してモジュールとシステム連携しながらも別々に設計していくスタイルに変わっていくが、その前は大規模化に向けた設計上の戦術戦略思考が未熟だったということだろう。

 

教訓:大規模システムへの変化が予想されていた。ゆえに、その時代の予測される設計スタイルからバックキャストして隊列をどう整えるか議論すべきだった。

若き日の自分自身の無能は少しヨコにおかしていただいて、この教訓における「議論ができなかった理由」を分析すると、設計現場、本社半導体研究所、CAD(UCバークレー出身者もいた)などで一体となった半導体デザイン戦略会議がなく、各組織個別的であったことがあげられる。一方若き技術者は目の前のこと、半導体技術を覚えることに必死だったとはいうものの、大学で先端技術の出どころぐらいは勉強してきたわけだから、課題意識ぐらい芽生えないといけなかったのだろう。この課題意識を刺激しあうのは、組織内の組織間の啓発もさることながら外部から来た目があることが望ましい。当時は転職はマイナーで、生え抜き意識も強かった。若き自分自身も昭和の風土が沁みついていただろう。

 

さらに、培った半導体技術をもとに、対内セット事業部への納入時期から半年以上開けることを条件に拡販にも力を入れていくのだが、ここでも隊列に類する戦術の未熟が露呈していく。(つづく)

 


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