大崎栄子先生

大崎栄子先生

中学3年の時の担任の先生である。1972年まで放映されていた「肝っ玉かあさん」のような人だった。声が大きくいつも気合が入っている印象で今もその声を思い出す。下写真は3年5組卒業文集における先生の巻末言である。

「今こそは、この身のひとつの舟路なれ」は教師としての矜持を感じる一節である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

時を経て、先生のおっしゃる思い出深さの意味をつくづく感じる日々である。「今こそは、この身のひとつの舟路なれ」と書き、我々を送り出した後の寂寥感はいかばかりだっただろうか。糸が切れた凧のように遠くへ行ってしまった卒業生もいれば、時を経た同窓会で先生!とかけよる卒業生もいただろう。俳優の杉良太郎も教え子のひとりだそうである。

素直に純粋に生きてほしい、、、教育者としての本懐は遂げられたのだろうか。私は、気合入れてしゃべる、ことを学んだ。(もちろん理科の先生なのでそのことも)今も某大学で電子工学を教えるが声の大きさは随一と自負し、プレゼン演習でも「最初に大きな声でぶっぱなせ」と教えている。気合は自信につながる。

糸の切れた凧だった私はもう面前に報告できないことが残念だが、知る同級生は皆、荒波も超えてしっかりやっている、、、とここに報告したい。

 

(注釈)

先生の巻末言にある「漫々たる大海・・・八重の潮路・・・」は國木田獨步の「失戀兵士」の一節のようであるが、先生はもちろん、教え子を笑顔で送り出す心境として引用されていると思われる。

出典:失戀兵士 國木田獨步: Blog鬼火~日々の迷走 (cocolog-nifty.com)


父、出征す

 

 

 

 

 

 

写真は昭和20年、父が二十歳になる前のある日である。3/17の神戸大空襲の前かもしれない。

厳しい表情の両親(私の祖父母)に挟まれ、当時は出征は誉としながらも、とても晴れた表情とはいえない父。それでも国を守る決意で、神戸から汽車に乗り鹿児島に移動したに違いない。特攻隊訓練のためボートで鹿児島湾を渡ったと聞いてきた。前列右端は恩師であろうか・・・教え子を戦地へ送り出すことに複雑な思いと使命感に包まれた佇まいを感じる。

国家の為とは、誉とは。繰り返されるウクライナやガザでの戦闘に重ね、今も昔も若者の心に非情な決意を課していることに胸塞がれる。

石油の確保などで無謀な戦争を仕掛けた日本、神の国が負けるはずはないと信じ異常なまでの戦線拡大。近隣諸国を蝕み、国民へも大きな犠牲を強いた。現在は平和としても、この犠牲に報いる国家になれているのだろうか。近隣諸国含め命を奪った罪を国家としてきちんと償えているのだろうか。決して金銭だけで贖える問題ではないだろう。太平洋を挟んだどこかの国への(協調という名の)言いなり、「国境線はむしり取って変えるもの」的な、東シナ海を経た大国へも堂々と発言できない今の我々日本。昨今の政治腐敗の闘争劇、犠牲となった御霊に顔向けできるだろうか。経済もじり貧となり、国際社会に平和理念への姿勢を見せれていないことに、我々ひとりひとりが向き合うべきだろう。

「ならばお前は何ができる」

出征前の父に語りかけられているような気がする。非武装だけでは成り立たず、さりとて武力に威をふりかざす国には腹立たしい。平和理念を研ぎすますことは容易ではないが、せめて国際社会に堂々と発言する胆力を持ちたい。

学生に「教科書に書いていることに好奇心のみならず本当に正しいのか疑問を持て」と諭し、このことが将来の胆力へつながることを期待している。亡き父へいい報告ができればいいが。。。

 

 


プラットフォーマー

日本の半導体事業が最も不得意とする(ようにみえる)のは、プラットフォーム志向のビジネス戦略である。

半導体事業における競争源泉はデバイスと製造技術にある、このこと自体が間違っているとは思わないし、多くの識者がこの観点で日本の半導体事業の盛衰を分析していることは価値あることと思われる。なかには、なぜ高品質にこだわってしまったか、の分析もあり筆者も十分うなずける。

問題は、ビジネスの進め方をデバイスや製造技術中心に考え、他の競争源泉には考察に至らない傾向があることだ。


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