2011年から2013年のインドの日々はカオスである。欧米にはないインパクトに出会い、駐在できたことは生涯の宝のように思う。
離任直前、カオスの日々から最後降り立ったのはレーラダックだった。
Wikiより
レー(チベット語:གླེ་;、ワイリー方式:Gle、英:Leh)はインド北部、ラダック地方最大の中心都市で、地方政府と解釈されるラダック自治山間開発会議の議会がある旧王都である。標高は約3650m。チベット文化圏に属する。交通は不便で通常デリーから空路1時間でレー空港に降り立つことになる。タクランラ峠(タグランラ峠、またはトンブラ峠とも。標高5360m)越えの陸路(約22時間)は夏季しか通じない。
空路レーへ
降り立つとそこは土色に冠雪、まるで別の惑星みたいだった。
日本の妙心寺が建立
高山病に苦しんだが、車をチャーターしパキスタン国境近くまで(よくご無事で、とよく言われた)
国境に近いことを物語る
途中寺院に寄りお経を聞く
ご親切に「ご飯食べてく?」と聞かれた。釜ではなく電気炊飯器で混ぜご飯のようなものを炊いておられた。
牛さんに2ショットをお願いしたがあまりご機嫌はよろしくなかったようだ。
秋野不矩さん 1908年7月25日天竜で生まれ、インドにも渡り景色や人に魅了され多くの絵画を残し、京都の美山が終焉の地であった。
天竜二俣駅から歩き坂を上ったところに浜松市秋野不矩美術館がある。https://www.akinofuku-museum.jp/
黄土色の壁にこげ茶色の屋根、そこはまるで日本とインドの建物が融合したような趣がある。
インドで、その場にある土で練り上げたまさにSDGs的な民家をよくみたが、黄土色の壁はその色。こげ茶色の屋根はケララ州コチなどで建物でよく見た屋根だ。
不矩さんは本名ふくさん、インドに感動して何回も渡航されその風景を描いた。不矩という名は矩形にはこだわらないという思いがあるとのこと。
中国の蘇州に出張で行ったときは、ホテルの前に広がる湖の風景に郷愁を感じたが、インドに駐在したときは、仏教発祥の地ということもあるのか、西から渡来した民族のDNAが刺激されるのか、なぜか懐かしいものを感じたものだ。大都市は近代化しているが、いわゆるRural地域はインフラも整わず、土の道も多い。神様である牛が跋扈し、イノシシ親子の縦列行進もめずらしくない。正直汚いな~の感想ではあったもものの、懐かしい気持ちも湧く。不矩さんのインドを多数描いたモチベーションも「懐かしさ」なのだろうか・・・
「はて?」懐かしさの正体はなんなのか。我々は、近代的な環境に慣れ、その便利さを手放せないものの、どこか不便さの中にあった人と人の間のぬくもりを欲求しているのか、あるいは、不便な時代にあった、あすなろ的なものにエネルギーを再発見したいと願うのだろうか、近代化にどこかうつろなものを感じているような気がする。
2012年ごろインドにて
近代の利器にならび正々堂々牛は行く
中学3年の時の担任の先生である。1972年まで放映されていた「肝っ玉かあさん」のような人だった。声が大きくいつも気合が入っている印象で今もその声を思い出す。下写真は3年5組卒業文集における先生の巻末言である。
「今こそは、この身のひとつの舟路なれ」は教師としての矜持を感じる一節である。
時を経て、先生のおっしゃる思い出深さの意味をつくづく感じる日々である。「今こそは、この身のひとつの舟路なれ」と書き、我々を送り出した後の寂寥感はいかばかりだっただろうか。糸が切れた凧のように遠くへ行ってしまった卒業生もいれば、時を経た同窓会で先生!とかけよる卒業生もいただろう。俳優の杉良太郎も教え子のひとりだそうである。
素直に純粋に生きてほしい、、、教育者としての本懐は遂げられたのだろうか。私は、気合入れてしゃべる、ことを学んだ。(もちろん理科の先生なのでそのことも)今も某大学で電子工学を教えるが声の大きさは随一と自負し、プレゼン演習でも「最初に大きな声でぶっぱなせ」と教えている。気合は自信につながる。
糸の切れた凧だった私はもう面前に報告できないことが残念だが、知る同級生は皆、荒波も超えてしっかりやっている、、、とここに報告したい。
(注釈)
先生の巻末言にある「漫々たる大海・・・八重の潮路・・・」は國木田獨步の「失戀兵士」の一節のようであるが、先生はもちろん、教え子を笑顔で送り出す心境として引用されていると思われる。
出典:失戀兵士 國木田獨步: Blog鬼火~日々の迷走 (cocolog-nifty.com)
写真は昭和20年、父が二十歳になる前のある日である。3/17の神戸大空襲の前かもしれない。
厳しい表情の両親(私の祖父母)に挟まれ、当時は出征は誉としながらも、とても晴れた表情とはいえない父。それでも国を守る決意で、神戸から汽車に乗り鹿児島に移動したに違いない。特攻隊訓練のためボートで鹿児島湾を渡ったと聞いてきた。前列右端は恩師であろうか・・・教え子を戦地へ送り出すことに複雑な思いと使命感に包まれた佇まいを感じる。
国家の為とは、誉とは。繰り返されるウクライナやガザでの戦闘に重ね、今も昔も若者の心に非情な決意を課していることに胸塞がれる。
石油の確保などで無謀な戦争を仕掛けた日本、神の国が負けるはずはないと信じ異常なまでの戦線拡大。近隣諸国を蝕み、国民へも大きな犠牲を強いた。現在は平和としても、この犠牲に報いる国家になれているのだろうか。近隣諸国含め命を奪った罪を国家としてきちんと償えているのだろうか。決して金銭だけで贖える問題ではないだろう。太平洋を挟んだどこかの国への(協調という名の)言いなり、「国境線はむしり取って変えるもの」的な、東シナ海を経た大国へも堂々と発言できない今の我々日本。昨今の政治腐敗の闘争劇、犠牲となった御霊に顔向けできるだろうか。経済もじり貧となり、国際社会に平和理念への姿勢を見せれていないことに、我々ひとりひとりが向き合うべきだろう。
「ならばお前は何ができる」
出征前の父に語りかけられているような気がする。非武装だけでは成り立たず、さりとて武力に威をふりかざす国には腹立たしい。平和理念を研ぎすますことは容易ではないが、せめて国際社会に堂々と発言する胆力を持ちたい。
学生に「教科書に書いていることに好奇心のみならず本当に正しいのか疑問を持て」と諭し、このことが将来の胆力へつながることを期待している。亡き父へいい報告ができればいいが。。。
10/13、一朶の雲ではなく秋らしい筋雲であった。
スマホでコリメート撮影(うまくいかなかったが黒点ははっきりと)
説明員の方に懇切丁寧に教えていただいた。
曽根隕石は1866年(慶応2年)6月7日正午過ぎに当時の丹波国曽根村(現在の京都府京丹波町)に落下した。大砲のような音が2回あり、麦畑に土煙を立ててたと記録されている。曽根村近くの村の代官であった高木家に保管されてきたが、昭和41年に博物館に寄託された。その後、京都府に寄贈されている。Hグループの普通球粒隕石である。
左の写真は曽根隕石のレプリカ
そして「坂の上の雲」と今の日本
一朶の雲を目指した秋山兄弟と富国強兵の日本。日露戦争の勝利が太平洋戦争勃発までの日本の軌跡に大きく影響したと司馬遼太郎は説く。
日いづる神の国のやることは正しいと唯我独尊だった日本、自国の利益のために戦略を駆使する欧米。昭和16年12月8日は日本の歴史の大汚点となってしまった。近隣諸国や日本国民への軍の大罪の回顧とともに、なぜ開戦に至ってしまったのか、二度とこのような犠牲を出さないようにするために考え続ける必要がある。
考える命題は多岐にわたるようだ。明治憲法の解釈の捻じ曲げ=司法権、立法権、行政権を超越した統帥権なる「魔法の杖(司馬遼太郎による)」を生み出し軍部が暴発、メディアも迎合的もしくは扇動する記事を強いられた、封建制の負の側面に根付く国民性、などなど。統帥権による妄想の戦略が唯我独尊に染まり、弱い国民も迎合せざるを得ない時代でもあったが、これで考察が終わると未来につながる分析にはならない。封建制に関しては、海に囲まれ外敵が少なかったがためであろうか、中国や欧州の封建制とは趣を異にしているらしいが、我々日本人には、過去の封建制のルーツなのだろうか、いわゆる「飼い慣らされ」のDNAが沁みついているように感じられる。「出る杭は打たれる」などの諺は、そのニュアンスとしては日本にしかないらしい。最近の若者の政治参画への意識は高揚されているが、国民全体は政治に関心が高いとは言い難い。選挙での投票率の低さなども「飼い慣らされ」の証左だろう。このことを革命で獲得した民主主義か否かで分析する人もいる。
戦略思考で欧米との差を抽象的に考えれば、「明日は太陽が出るか否か」で考えそこで思考停止に至る日本、「黒点を分析してまで戦略を考える」または「地球上のどこでどのように太陽を見るかで戦略を考える」の欧米、極端な言い方ではあるがこの差のようにも思える。たとえば、B29はアメリカの航空母艦から発艦はできても着艦はできない、だから日本には来れないと考えた日本軍部だったが、アメリカは発艦し爆撃後は中国に着陸すると発想した。チャーチルとルーズベルトが共産国家封じ込めのためにヒトラーを活用しようとしたことも、日本の真珠湾攻撃までのあらすじも戦略の発露のようにみえる。農耕文化の日本人がコメを収穫し箸を器用に持つように、狩猟文化の彼らは狩猟時の相互連携が日常茶飯事で鍛えられている。日本は戦略議論は会議室でと考え、欧米は食卓でと考えている。このことは海外企業との会議でも感じたことがあった。日本人の箸を持つことと欧米人の戦略を考えることはほぼ同次元の活動レベルなのだ。
司馬はさらに云う。「昭和初期、絹産業程度が主力だった日本が、資源の輸入体質から脱却するため海外へ進出していく、すでに強国であった列強の工業力には比べるべくもない」にもかかわらずなぜに戦争に走ったのか。司馬もよくわからないとしながらも、神の国が負けるはずはないと錯覚したのだろう、とのことである。明治維新から急激な富国強兵、そして日露戦争でのバルティック艦隊撃破、過去には元寇での神風による撃退・・・確かに錯覚の要因はあった。問題は、太平洋戦争開戦でも冷静な分析ができる将官がいたにもかかわらず、何をかいわんや、で論理が撃破されたことだろう。
無謀な暴走に向かわせたのは何であったか。そのマインドは何であったのか。現在に生きる我々も考えるべき命題である。同じ過ちは繰り返さないにしても、封建制の負の側面に根付く国民性「飼い慣らされ」癖が消えたわけではない。その証拠に平和を訴求する国家になった近代でも、1985年のプラザ合意以降の低迷は「飼い慣らされ」による過ちの結果と考えるべきだ。「一朶の雲」の物語は、当時の世相を反映した日本のバイタリティの象徴であるが、それのみで世界とコミュニケーションできるわけではないことを忘れてはいけない。
@N35.165E135.415
今年は、ラフマニノフ生誕150周年だそうで、Youtubeでもラフマニノフの特集がにぎやかである。中学時代の恩師大崎栄子先生のご自宅に友人数名でなんかの流れでお邪魔したことがあり、それまで食べたことがないようなカレーライスをご馳走になった。そのときにかけていただいたレコードがチャイコフスキーとラフマニノフであった。天性の音痴だったので音楽は得意とは言えなかったが、その時以来よくクラシックのレコードを聴くようになった。
ラフマニノフはピアノ協奏曲をそのときは聴かせていただいたが、数々の名曲があることを知り、なかでも表題の日本名「パガニーニの主題による狂詩曲」のうち第18変奏(アンダンテ・カンタビーレ)はCMでも使われ、目を閉じれば壮大な景色が瞼に広がる曲である。
で、Rhapsodyは英辞郎webによれば「吟遊詩人によって歌われた叙事詩」とあるが、それがなぜに狂詩曲と訳されるのか、抒情曲のほうがいいような気がするのだが、不思議に思った。
調べる力はないので、ここでこそChatGPTさんに相談だ。
Q:ラプソディはなぜ狂詩曲と訳されるのか
A:「ラプソディ(rhapsody)」という言葉が「狂詩曲」と訳されるのは、その語源と歴史的な背景に起因しています。以下に詳細を説明します。
語源: ラプソディ(rhapsody)は、古代ギリシャ語の「ῥαψῳδία」(rhapsōdia)から派生した言葉です。このギリシャ語の語根「ῥαπτός」(rhapto)は「縫う」や「結ぶ」を意味し、「ᾠδή」(ōdē)は「歌」や「詩」を意味します。つまり、「ラプソディ」は文字通り「詩を縫い合わせた歌」といった意味合いを持っています。
ギリシャの伝統: 古代ギリシャでは、ラプソディスト(rhapsodist)と呼ばれる詩人が、叙事詩や詩的な物語を口頭で語りながら詠唱する伝統がありました。これらの詩人は、長編の詩や物語を断片的に歌い、その中で異なるエピソードや話の断片を結びつけ、一つの物語として繋げる役割を果たしました。このような伝統的な方法から、「ラプソディ」は詩や音楽の繋がりを強調する言葉として捉えられました。
文学と音楽の融合: ラプソディは、詩と音楽が組み合わさった形式であり、古典音楽の一部としても知られています。この形式では、詩の朗読や歌詞が音楽と調和して表現され、感情や物語性が豊かに表現されます。したがって、「狂詩曲」という訳語は、この詩と音楽の融合を表現するのに適していると考えられています。
総括すると、ラプソディが「狂詩曲」と訳されるのは、その語源やギリシャの伝統、文学と音楽の融合など、さまざまな要因が影響しています。この言葉は詩と音楽の組み合わせを示す用語として広く受け入れられています。
ChatGPTさんありがとうございます。検索の高速化に大変役立ちます。(論文など書く場合は出典情報の書き方要注意)
依然、「狂」という文字が入ることに違和感があるのだが、これもYahoo知恵袋さんに勉強になるQ&Aがあったのでここにリンクを貼っておきます。
狂詩曲という言葉にはなぜ「狂う」という漢字が使われているのですか? – 狂… – Yahoo!知恵袋
小学校時代に通っていた書道教室「天真」と同じ教室に通っていた友人の作品が毎日書道展に展示されているというので行ってみた。友人は大成し現在も書道家の道を歩んでいる。自分自身は、習字そのものは好きであったが、基本的に父の勧めで通い始めた。行けば友達がいる、ぐらいのモチベーションだったかもしれないが「払い」がうまく書けるようになった時の感動は覚えている。
小学校から高校でも習字の授業があった。書の気とか心を感じるというよりは、技量というプロセス、出来映えというゴールが主な目的であったような気がしている。が、書道を究める人たちは、曰く「守破離」の道を歩むものらしい。書道展では多くの作品があり圧倒されたのだが、書道家の気を感じることはあれ、その技量を感じるなどは口に出すのもはばかられる。歩いていると、見学者からの「濃淡が・・・」などの話を小耳にはさんだが、たとえば濃淡に込められた作者の意図がなんであるかまではわからない。
自分なりに感じることをベースに気取って言えば、意図というよりは波動である。道を歩む人の人生や気概を感じ、文化とか伝統との対話を感じ取ることで作者と鑑賞者の間の多種多様な心の波動につながっていくようなものかもしれない。
別の芸術であるが、風景画家のジェームス・モリソン、以前から好きな画家であったが、ドキュメンタリー映画「Eye of the storm」でも感動的な制作過程をみることができ、おりしも鑑賞してきた書の世界に通じるものを感じた。特に、雲の描き方に連想させるものがあった。ちなみに絵筆(ブラシ)はフランスの専門店「Sennelier」で購入していたそうである。氏は絵筆に関して「(こういうものが欲しい)形状を維持できる・・・瓶一杯の油に浸しても形を保つような。」と語っていた。書道でもくだんの友人曰く「弘法筆を選ばす、にあらず、えらぶんです」と言っていたが、波動を伝える筆という媒体も心技体の一部なのだろうと思った。
私が取り組んできた電子工学、集積回路技術にも「これは芸術か」と思える世界がある。もちろんそこには、平賀源内でもないので筆などない。あるのは、回路図(設計図)と結果として出るデータと熱雑音など見えない世界との「せめぎあい」である。回路動作とトランジスタ内のキャリアのふるまい。エンジニアにとって楽しい世界である。芸術的な回路技術としてはSwitched Capacitor FilterとLeapfrog Filterが最も印象深い。回路技術の中でも上級中の上級クラスの回路構成で、Leapfrog Filterは一度集積化に挑戦したが、半導体素子の高周波特性により回路全体が発振して日程制約もあり量産化は及ぼなかった。(Switched Capacitor Filterは量産化に成功している)
芸術と工学、立場は違えど、哲学と科学が同じ精神世界で語られたようなものも見いだせる。自分の右脳の一部のシナプスだけが喜んでいる気もするが、何かを発見というか感じ取ることができた喜びではある。
木星探査機が打ち上げられた。2031年に到着し、エウロパ、ガニメデ、カリストの3つの衛星で地球外生命の探索などをするそうである。衛星を周回しながら探査機から衛星の地表までの距離を計測することで衛星内部に深い海があるかどうかわかるらしい。木星との間の潮汐でゴムボールのように”ぶよんぶよん”するらしい。地球と月との関係で発生する満潮・干潮が、木星の衛星の地底で起こって地表に影響が出るとのこと。地震で地面が動くのは理解できても、固い地面がぶよぶよとは不思議極まりない。
この打ち上げにあわせて、ケビン・スペイシー、ジェフ・ブリッジスが共演する映画「K-PAX光の旅人」を観た。20年ほど前にも観たが、ジョディ・フォスターの「コンタクト」と並び宇宙系で最も好きな映画だ。ケビン・スペイシー扮する琴座K-PAXという惑星からきた宇宙人は、あるトラウマを抱えた人の肉体を借りて地球の状況を報告するのだという。もっともこの「肉体を借りて」と「トラウマ」は最後のほうで判明する。家族、コミュニティ、社会規範などもないK-PAX人が、家族を不当に奪われた人にいわば憑依するわけだが、その言動が人類の現在地を問いかける映画だと感じた。
つまり、K-PAX人は、人間関係すべてにドライで社会規範など不要で、地球人がなぜいろいろ争っているのか理解できないようである。この姿が地球人とは対極にうつるが、地球上のさまざまな紛争を乗り越えてこの世界へ行きつけるのかは疑問である。しかしながら、浦道を巡ればふとこのK-PAX人の在り方に共感が生まれるのかもしれない。表通りの喧騒から離れてふと裏通りに入りたくなるのもそうなのかもしれない。
この映画、欧米人の感じ方と日本人の感じ方とでは違うのだろうか・・・
中学2年の時の担任の先生であり3年間社会の授業を受けた。厳しい先生という印象が強く、担任になったときやや緊張したが、生徒の努力を讃えることに余念がない、という思い出もたくさんあった。
中学3年の社会の授業の時だった。
「きょうどう」生活という熟語が出てくる場面があり、先生は「協同」生活と黒板に書いておられた。後日テストで、この熟語を求められる虫食い問題があり、協同生活、と書いた。ところが、先生は×をつけられたのだ。共同生活、が正しく、間違って黒板に書いてしまったと詫びておられた。にもかかわらず、テストを返してもらった時私は生意気にも食い下がってしまったのだ。教えられた通りに書いたのだから正解だと。交渉の結果、半分の1点をもらった。しかしながら後々にこの食い下がりに自分の次元の低さを思い知らされることになる。先生は、間違いで教えてしまった、その字に点をくれ、、、そんな次元でしつこく戦う私に呆れておられたのか、苦笑いではあったが、、、
その数週間ぐらい後であったと思うが、授業中、ある質問に手をあげて答えてドヤ顔でもしていたのだろう、私に唐突な言葉を投げられたのだ。
「〇〇、僕は将来君のことは忘れるかもしれないが、R.Mのことは一生涯忘れないと思う。彼は学校に来ても何一つ理解できない、でも毎日学校に通ってくる、この価値、君にわかるか」
R.M君とは今で言う知的障害の生徒であった。
通っていた中学の先生方にはそれぞれに貴重な思い出がある。本当に現在の自分の血となり肉となっている経験ばかりだ。この中でも、森守一先生のこの言葉は、その時の自分には意図が理解できないものであったものの、後に「努力の本質」というものを教えていただいたのだと気が付いた。
当時、将来はNASAで勤務したいという夢があって頑張っていたつもりではあるが、そんな私に先生はR.M君の話しをされた。はっきりとはおっしゃらなかったが、
「点数よりも、どんなことでも一生懸命継続していることに目を向ける人間であってほしい」
このことを学んでほしかったのではないかと思うのである。
勉学を通じて人としての在り方も教えていただいた。教育者の真髄をみたように思う。