月刊誌ニュートン2021年10月号の特集は「時間の謎」である。
時間とは、太陽など自然環境や作物の収穫など日常活動にかかわる周囲の変化に対する表現の道具であって、時間そのものは存在しない、の解釈もある。また、相対性理論でも、おかれた環境により時間の進み方が変わるとされる。飛行機に乗っているだけで地上の人との時間はズレ、山の頂上と平地でも時間の進み方は変わる、などもアインシュタイン博士によって予言された。
表題の「時間とエントロピー」は、学生時代インターンで松下電器(当時)の寮に3週間いた頃、同じ部屋の東大生との会話で出てきた。最初東大生は「エントロピーみたいなもの」と表現していた。そのときはエントロピーを不可逆的な状態量として彼は熱弁をふるっていたので、ほおーと、唸った。なぜ唸ったかと言えば、エントロピーは熱力学や情報理論で習ったものの、時間を語るにエントロピーが出るか、的な感動であった。最近同様の記事や本を見かける。
時間とエントロピー・・・いろいろな解釈の仕方がありそうなので、ここでは横に置いて(東大生の熱弁によるエントロピーはかなり専門的になるので)、私なりに「エントロピーと時間」を自分を納得させるように平たく言えば、周囲とのかかわりが何もない状態はエントロピーが低く、かかわり=乱雑さ、が増えた状態がエントロピーが高いため、時間の進み方を意識する、である。もっとわかりやすいかもしれない例えで言えば、会社などを卒業しサンデー毎日のような生活=変化のない日々=エントロピーが低い、を送ると「今日は何曜日だっけ」があるように、その人からは時間の概念は失われていく。つまり、ビジネスで言えば、人とのかかわり合いや、製作物などの納期などの中で時間が個人の脳に作用する。「時間」は尺度であって、モノでもないし制御されるものでもない。はたまた、影響力とか間接的な作用力はあっても、それ自体熱量など物理量に変換されるようなものではない。
なんか壁にぶちあたった時とか「時間が解決してくれるよ」とか「時間薬」という。このことで時間がなにかエネルギーをもったものに解釈されがちである。昔、小学校時代にNHKで「タイムトラベル」や「タイム・トラベラー」(時をかける少女)があり、ちょっと前の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は有名である。時間を制御できればこれほど面白いことはないだろう。法整備は難しそうだが。。。飛躍だが、「時間の流れ」という表現は情緒的な文化人発想であって、時間は流れるものではなさそうだ。ただし文化人的発想が人類には最も価値がありそうで、ここでの私の理屈は、屁みたいなものである。
屁理屈とはよく言ったものだ。