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ガラパコス化の原因と対策案

ガラパコスの話は、小中学校時代の宇宙への夢にさかのぼる。

中学高校時代は、「将来はNASAで働く」ことを目標にしていた。アポロ計画に憧れていたこともあるが海外で活躍することをイメージしていた。電子機器をさわることも好きだったので、大学は電気工学の道に進み電子物性の研究室に所属した。大学4年の夏休みに松下電器音響研究所のインターンに行き、不出来な学生ながらその後入社の運びになった。回路工学の鉄則、インピーダンスの低い所を電流は流れる、自分も同じだった。大学院に進学してその後はNASAを目指す、はすっかり頭から消えていた。

インターンの3週間でオーディオの「アンビエンス効果」の開発をみせてもらったり、工場でカーボン塗料を塗るボリュームの製造工程をみせてもらい自分でも試作させてもらったりした。当時はまだ、音量調整のための電子ボリュームはなく、シート状のカーボン抵抗に接点をスライドさせての音量調整だった。このボリュームで音質に影響にある-120dBmのひずみが発生するという。「聞こえるようになるんだよ」という指導員の方の話に大学とは違う迫力を感じたものだ。朝8時出勤ながら毎日が夢のような3週間だったことを憶えている。しかも、社員さんの独身寮に入り昼食券ももらって3食無料に加え日当800円をもらえた。この800円はお年玉のようにうれしく、土日は道頓堀の「くいだおれ」に行き、安くておいしいものを食べた。くいだおれ人形の前にしばし佇んだことは一生忘れない。

くいだおれ太郎がお出迎え!道頓堀、中座くいだおれビル | J-TRIP Smart Magazine 関西くいだおれ太郎(ネットから拝借)

 

入社後、時代は高度成長期の後半、電子機器、半導体の開発に夢中で仕事をしていた。この時期を経て、そののちに、日本の携帯電話開発にガラパコスなどと揶揄される時代がくるなど想像だにしなかった。世に言うガラケー、ガラパコス携帯のことである。いいものを開発する、それしか頭になかった。このような夢中が技術者としての自信にもなったが、お客様に製品をどう使っていただけるかという視点の不足にもつながっていったのかもしれない。いわゆるProduct outの発想である。

その後、コストダウン要求から製造は海外となり、日本は開発、つくるのはアジアという構図が、日本企業における慢心に繋がっていったのではないかとも思える。日本人は英語が苦手というコミュニケーション力の問題もあるかもしれないが、「ガラパコス」になっていった根底には、良くも悪くも海に守られた日本人のマインドにあったのではないか。経済的にも豊かになり、このマインドを慢心というのは言い過ぎだとしても、一緒に仕事する海外の人たちの考え方を学ぶ姿勢は少なかったと思われる。

Product out発想が常態化すると、製品を使っていただけるお客様視点での検討や開発工程・製造工程の合理化を図るための標準化のリーダーシップをとれなくなるのである。「技術至上主義」と「自前主義」の蔓延にもつながっていった。ガラケーでの経験を経てDVDやBDでの標準化は日本企業は奮闘したが、歴史的にみて、標準化や隊列を整える業界リーダーシップをとる能力は不足していたのかもしれない。

冒頭で、少年時代の夢と「くいだおれ」の思い出を書いた。回顧録を書きたかったわけではない。NASAへの夢を忘れて電子機器メーカーへ、このことは決して否定されるべきではない。が、会社では海外駐在も経験させてもらったものの、この大学4年のときの自身の動きはガラパコス化の緒についた、と思い出されるのだ。

昨今では、野球でもサッカーでも海外で活躍する日本選手が増えた。彼らのマインドは脱ガラパコス・・・という気負いではないにしても、それを体現している。アカデミックの世界でも、ビジネスでも海外を目指す人は増えた。友人でも、博士課程で海外の大学に入った人もいるし、アートの世界でNYに渡った人もいる。要はやる気の問題ではある。しかしながら、「右に同じ」が慣習の日本人マインドを徐々に変えていくために、若い世代を社会全体が後押しできないだろうか。

たとえば、選抜試験があっても、高校であれば1年間無償で海外留学、大学であれば2年間無償で海外留学して論文の成績次第で4年間の授業料免除。会社でもそうだ、TOEICの点数が高いなど外国語で活躍できる人にインセンティブをあげてもいい。日本社会はどことなく日本にいて安寧に過ごすことに安定点を見出す傾向にある。ここを打破して海外での学びや仕事の経験者を増やせば脱ガラパコスに貢献し、社会システムにおいて世界の流れに取り残されるリスクを少しでも回避できるのではないか。


森守一先生のこと

中学2年の時の担任の先生であり3年間社会の授業を受けた。厳しい先生という印象が強く、担任になったときやや緊張したが、生徒の努力を讃えることに余念がない、という思い出もたくさんあった。

中学3年の社会の授業の時だった。
「きょうどう」生活という熟語が出てくる場面があり、先生は「協同」生活と黒板に書いておられた。後日テストで、この熟語を求められる虫食い問題があり、協同生活、と書いた。ところが、先生は×をつけられたのだ。共同生活、が正しく、間違って黒板に書いてしまったと詫びておられた。にもかかわらず、テストを返してもらった時私は生意気にも食い下がってしまったのだ。教えられた通りに書いたのだから正解だと。交渉の結果、半分の1点をもらった。しかしながら後々にこの食い下がりに自分の次元の低さを思い知らされることになる。先生は、間違いで教えてしまった、その字に点をくれ、、、そんな次元でしつこく戦う私に呆れておられたのか、苦笑いではあったが、、、

その数週間ぐらい後であったと思うが、授業中、ある質問に手をあげて答えてドヤ顔でもしていたのだろう、私に唐突な言葉を投げられたのだ。
「〇〇、僕は将来君のことは忘れるかもしれないが、R.Mのことは一生涯忘れないと思う。彼は学校に来ても何一つ理解できない、でも毎日学校に通ってくる、この価値、君にわかるか」
R.M君とは今で言う知的障害の生徒であった。

通っていた中学の先生方にはそれぞれに貴重な思い出がある。本当に現在の自分の血となり肉となっている経験ばかりだ。この中でも、森守一先生のこの言葉は、その時の自分には意図が理解できないものであったものの、後に「努力の本質」というものを教えていただいたのだと気が付いた。

当時、将来はNASAで勤務したいという夢があって頑張っていたつもりではあるが、そんな私に先生はR.M君の話しをされた。はっきりとはおっしゃらなかったが、        

「点数よりも、どんなことでも一生懸命継続していることに目を向ける人間であってほしい」                                               

このことを学んでほしかったのではないかと思うのである。

勉学を通じて人としての在り方も教えていただいた。教育者の真髄をみたように思う。

 


有朋自遠方来

はるか昔社会人となり、VTR用半導体開発時代から後年のインドR&D運営時代まで、それぞれの時代にゆかりの友たちと宇治へ紅葉狩り。近くに住む人たちであるが、過去という遠方から来た、そんな気がするひととき。激動の時代を経て、凡庸なラジオ少年がここまでこれたことに感謝する静かな時を過ごす。

曹洞宗仏徳山 興聖寺

 

 

 

 

 

 

 

 

宇治平等院

 

 

 

 

 

 

途中、宇治川上空、夕日の下を鷺が横切り、平等院で我々の前に立つ(*)。「自遠方来」

 

 

 

 

 

 

遠くから来て一休み。鷺は何想う・・・

 

(*)宇治川で飛んでいた鳥が平等院池に立つ鷺と同一かどうかは確証なし


S.A君に捧ぐ

2022年11月19日、神戸市須磨区にある萩の寺へ、40年前26歳の若さでこの世を去った友が眠る墓に行った。中学の同窓4人で在りし日の友の笑顔を偲んだ。

中学3年の時1年間隣り同士で、彼は「クラスを盛り上げるにはどうしたらいいか」「目安箱おいて意見吸い上げよう」などなど常に視点が高く、さりとて居丈高なところもなく周りを気遣い笑顔の日々だった。なんというか、尊敬の念を超えて、同級生の彼から多くの薫陶を受けた気がしている。今も忘れないエピソードがある。

ある日、M先生の大切なお手製の教鞭をふざけて壊してしまい、先生から「代わりの持ってきて」と言われた。静かに言われたので応急的なものをと勘違いしていた。翌日工作用の細い角材を持参したがM先生は激怒された。結果的に礼を失するものであったが、まさかの激高に思わずその場から逃亡を図ってしまったのだ。怒る先生は、逃げる私を追い廊下で大声を上げて叱責された。そこに教室の中から彼は飛び出し「明日自分が作ってきます!許してください」と自分のことのように詫びたのだ。人を想う包容力とはこのことだと、のちのちに思い出す出来事だった。

彼は、卒業文集の短文寄稿にこう記している。

「人間とは、人生とは何か。よりよい人間向上 これのみが僕の願い僕の人生。」

齢15歳、亡くなる前10年余のときの文章である。小学校時代からの意識の高さなかりせばこのような文にはならなかっただろう。高校時代には会ったが、その後長く連絡を欠いたことを悔いた。

そしてこの稀有の大器を早々に失ったことが残念でならない。

 

<追悼の詩>

須磨萩の寺に集う友垣
碑に刻む君の名に涙す
惜別の情さやぐ西の空
薫陶を与ふ笑美を見ゆ
相寿く大器の志を胸に
菅の蓑を纏い長き道を
歩み続けん

高取山を背に絆を想い
歩み続けん

 

 

 

 

 

 

小中学校時代の同級生であり書道家である宮崎恵煌先生の揮毫

(天に届け、の思いで揮毫いただきました。ありがとうございました)

 

 

(補遺)M先生は、夏休み、修法が原へ数人でハイキングに行ったとき、帰り道、パン工場の前で突然「見学しよう」とおっしゃった。工場の方もビックリされたようだったが、見学させてもらった上に出荷前出来立てのパンをお土産にいただいた。M先生のこの行動力、やってみよう精神はその後の人生に確実に生かされたと思っている。


国破れて山河あり

国破れて山河あり、あまりにも有名なフレーズである。コトバンクでは「戦争によって国が荒廃してしまったことを嘆くことば。また、人間の愚かな営みが、自然の前ではいかに無意味かを表すことば。(中国の杜甫の「春望詩」から) 」とある。明治維新、太平洋戦争敗戦、などなどこの言葉で語れる歴史上の出来事が日本にもあり、軍事クーデターなど外国にもたくさんある。家族や家を失い絶望の想いで山河を眺める当事者の心情には察して余りがある。これら以外でも、パンデミックや現在進行中の地球温暖化も、戦争で荒廃したわけではないが、「国破れて」と形容されそうな事象がある。「山河」を頭に浮かべて「国破れて」を未然に防ぐことが求められているのだろう。

加えて、’自由民主主義 vs 専制主義’や’過激な宗教間の対立’も「国破れて」で語られる日が来てしまう気がするのである。中国は「アメリカは民主主義の押し付け」と非難し、西側は逆に「非人権国家」「不法領土主張」などを非難する。お互い正義は我にありと云うのである。自由往来の世界、障壁無き経済連携、は本当に正解なのか、と考えさせられてしまう。国連はなんのためにあるのか・・・地球は一つの主義主張で自転しているわけではなさそうだ。

「山河」に住み「山河」に根ざした国際協調のカタチを目指せればいいのだろうけれど難しそうだ。中世の欧州勢の進出や150年前日本はなぜ開国に応じたのか、その理由を掘り下げれば山河に根ざせない人類の煩悩が見えるのかもしれない。もうひとつ、経済成長が続けば脱炭素など到底なしえないと説く学者もいる。グレタもそのひとりなのかもしれない。経済成長をやめようという国際協調はできるのか。煩悩の国際化は今に始まったことではなく、経済成長を始めた産業革命それ以前からのものである。縄張りの縄を製造を止めるにはどうすればいいのか。うーーん


アポロ11号

人類初の月面着陸でアームストロング船長のことば・・・

That’s one small step for man, one giant leap for mankind.

あとにも先にも、この偉業以上の感動はあまり記憶はない。giant leapとは「偉大な飛躍」である。

最近、アポロ11号クルーが生で登場するドキュメンタリ映画があった。最近制作された宇宙もの映画以上の迫力で、まさに実際おこったことが近年の映画のシーンにも勝るとも劣らぬ迫力であった証拠だ。現在一般に使われているPCの原型と言ってもいいと思うが、MS-DOSコンピュータが世に出たのは、アポロ計画の偉業よりもはるかに後のことである。にもかかわらず、サターンV型で出発し月面着陸を果たして大気圏にはじかれず地球に帰還・・・どんなシステムが支えていたのか、仕事などでコンピュータの威力に接するようになってからずっと気になっていた。

アポロ誘導コンピューター(Appolo Guidance Computer:AGC)なるものらしい。月面着陸直前にアームストロング船長の心拍数を上げたエラーコードを発出したり、すばらしいシステムだ。開発プロセスも想像できなくもないが、膨大なバグつぶしの連続であっただろう。映画「アポロ11号」でこのことを再認識した。

いま、自動運転などAI活用の研究が活発化している。はたまた「空飛ぶクルマ」も開発されている。ひとりの技術者としては興味は尽きない。大いに楽しみではあるものの、「パンデミックへの防御がワクチンや特効薬でほんとうに大丈夫なのか」的な、現在の社会システムの脆弱性も含め「これでいいのか」のようなものを感じる。

技術は進化した、でも社会システムや政治は進化したのだろうか・・・バグを発見しても、バグ修正はできているのだろうか。。。


時間とエントロピー

月刊誌ニュートン2021年10月号の特集は「時間の謎」である。

時間とは、太陽など自然環境や作物の収穫など日常活動にかかわる周囲の変化に対する表現の道具であって、時間そのものは存在しない、の解釈もある。また、相対性理論でも、おかれた環境により時間の進み方が変わるとされる。飛行機に乗っているだけで地上の人との時間はズレ、山の頂上と平地でも時間の進み方は変わる、などもアインシュタイン博士によって予言された。

表題の「時間とエントロピー」は、学生時代インターンで松下電器(当時)の寮に3週間いた頃、同じ部屋の東大生との会話で出てきた。最初東大生は「エントロピーみたいなもの」と表現していた。そのときはエントロピーを不可逆的な状態量として彼は熱弁をふるっていたので、ほおーと、唸った。なぜ唸ったかと言えば、エントロピーは熱力学や情報理論で習ったものの、時間を語るにエントロピーが出るか、的な感動であった。最近同様の記事や本を見かける。

時間とエントロピー・・・いろいろな解釈の仕方がありそうなので、ここでは横に置いて(東大生の熱弁によるエントロピーはかなり専門的になるので)、私なりに「エントロピーと時間」を自分を納得させるように平たく言えば、周囲とのかかわりが何もない状態はエントロピーが低く、かかわり=乱雑さ、が増えた状態がエントロピーが高いため、時間の進み方を意識する、である。もっとわかりやすいかもしれない例えで言えば、会社などを卒業しサンデー毎日のような生活=変化のない日々=エントロピーが低い、を送ると「今日は何曜日だっけ」があるように、その人からは時間の概念は失われていく。つまり、ビジネスで言えば、人とのかかわり合いや、製作物などの納期などの中で時間が個人の脳に作用する。「時間」は尺度であって、モノでもないし制御されるものでもない。はたまた、影響力とか間接的な作用力はあっても、それ自体熱量など物理量に変換されるようなものではない。

なんか壁にぶちあたった時とか「時間が解決してくれるよ」とか「時間薬」という。このことで時間がなにかエネルギーをもったものに解釈されがちである。昔、小学校時代にNHKで「タイムトラベル」や「タイム・トラベラー」(時をかける少女)があり、ちょっと前の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」は有名である。時間を制御できればこれほど面白いことはないだろう。法整備は難しそうだが。。。飛躍だが、「時間の流れ」という表現は情緒的な文化人発想であって、時間は流れるものではなさそうだ。ただし文化人的発想が人類には最も価値がありそうで、ここでの私の理屈は、屁みたいなものである。

屁理屈とはよく言ったものだ。


ミランコビッチ・サイクル

セルビアの地球物理学者ミランコビッチ。地球の氷河期のサイクルなどを研究した結果、地球の地軸の傾きや公転軌道の離心率などとの関係を説明している。地軸の傾きにより高緯度地域の日射量が変化し、この変化が海水温に影響し・・・などとある。

恐竜時代の地球軌道が、地球環境を変えた? – 新たな変動メカニズムの提唱

https://www.seikei.ac.jp/obs/Info/staff/take2003.htm

http://www.venus.dti.ne.jp/~inoue-m/on_co2_2.htm#s20

https://www.jamstec.go.jp/sp2/column/03/

 

現在地球温暖化の主因が二酸化炭素やメタンなど温室効果ガスであるとされ、脱炭素の動きが活発化している。否定するつもりはないが、必要十分条件であるかどうかはしっかり分析する必要があると思われる。


海外仕事始め

1990年6月同僚とともにフランクフルト経由ハンブルグへ。初めての海外出張であった。

市内にそびえたつ圧巻のRathaus(市庁舎)に迎えられ、楽しさ爆発の海外出張であったこと鮮明に覚えている。Rathausは「ルルウラアアトハウス」とRの部分は舌を強烈に巻いで発音しないといけない。(巻かなくとも叱られることはない)

 

 

 

 

ハンブルグ郊外のNIVEAの工場の向かいに立つ、Philips社(書類にValvo社の名前が残っていた=電子管の製造会社)へ。当時Philipsだった友人によれば、地名はGeorg-Heyken-Straßeで写真の建物である。

 

 

Philips須藤伸次氏とバス停

 

 

当時使っていた半導体回路シミュレーション用のコンピュータはVAX11であったが、これをドイツ人は「ファックスイレブン」と発音して、最初、会話の脈絡的になぜファックスが出てくるのか大いに混乱したものである。ドイツ人の発音はVはFに近く、SはZの発音である。また、Dataデータはダーターと発音する。英語による会議であるが、お互い英語は母国語ではないので、白板上で堅実に議論ができた。

 

同僚とPhilipsのプロジェクトメンバー、ラップアップ会議後

 

 

2021年放映中の大河ドラマ「青天を衝け」でもパリでの渋沢栄一の驚愕ぶりが描かれているが、日本を飛び出し海外を見聞することは、たとえるならば、地平の果ては滝のように海水が流れ落ちているわけではないという発見の如く、まさに、その人の人生観を劇的に変えてしまうものだと思う。

そのころからか、残業しまくりの日本の会社風土と16時には家に帰ってしまうドイツの会社、成果的に大差ないことに気が付き始めた。ただしPhilipsの人の話では、家族と食事することが必須のため夕方には帰るが、家でぼーーっとTVをみるだけではない=ある程度は仕事のことは考えている(=回路設計は家でもできる)、とのこと。しかしながら、法律による1週間の就労時間規制や職場での専有面積規制などがあったと記憶しており、このことが、分業の在り方を進化させ仕事の効率を上げたのではないかと当時は思っていた。

このプロジェクトは欧州ローカルコンテント政策がきっかけと聞いていた。このことと、1986年の日米半導体協定、1990年すぎに始まっていた半導体ビジネスの大発想転換・・・半田ごてを握りしめることしか能がなかった私が、すべて関連性がある話だと気が付いたのは、後年になってからである。国際競争と貿易不均衡、域内産業保護、はたまた政治も加担した競争戦略。現在も半導体製品不足などもあり、日本国内の半導体産業復古が議論されているようだが、過去の総括も重要ながら、日本人のマインドをどう鍛えていけるかがポイントになるだろう。狩猟文化と農村文化、国境を持つ国と島国、いろいろな要因がありそうだ。製造拠点を日本におけばいいのだろう、だけではまた敗走の憂き目をみかねない。

大発想転換とは、忘れもしない1991年のドイツ出張で、ハノーバー空港で目に飛び込んできた「Intel inside」(インテル入ってる)の広告である。空港を降り立ちロビーに埋め尽くされた「Intel inside」のステッカー群。いったい何ごと?が正直な感想だった。黒子であった半導体事業が表舞台へ。それは半導体専業企業による新たなビジネスモデルの始まりだったのである。垂直統合型のほとんどの日本の半導体事業者はこのことに気が付いていなかったのではないか。少なくとも有識者含めIntelの意図を読み解けたのは少数派だったと思う。

 

つづく


時空のゆがみ?

この球体の連続のようなモニュメントは、兵庫県朝来市の「あさご芸術の森」にある。

近所には「播磨ふれあいの家」というハンデの方にもやさしい部屋をもつ宿泊施設があるが、コロナの影響だろうか残念ながら閉館となっている。近所には竹田城址があり、宿のご主人は親切に雲海が出る条件など教えてくださった。

写真は、撮影者(私)の姿が3体も・・・は不思議ではないが、宇宙空間には、光が重力で曲げられて遠方へ飛び、また曲げられて元のところへ帰ってくる、ようなところが無数にあるのだろう。それで・・・続きはまた


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